根木珠たまねぎ日記|(旧 There's No Blog)

電子書籍を個人出版している根木珠、思考を垂れ流す。(旧Don't Believe Everything You Read)

執筆衝動と救難信号

吐露 - 魔法のiらんど

私にとって書くことは衝動なのです。
怒涛のようにそれは襲ってくる。止めようもなく。
なんか同じ話を何回もしてる気がするけれどそれはさておき、かつて魔法のiらんどというところで、日記機能を使い思考の垂れ流しをしていました。
小説を自分で書くことはまだ考えていなかったころ。
なにかに突き動かされ、どうしようもなく、書くのでした。
たんに話し相手がいないからかも。
何年こうしているのか?
2002年5月1日とあるから、14年ですかね。
日記からブログ、SNS と。
なんでしょうね。
でも小説となると、精神的ゲロではひとに読ませられません。というか思考の垂れ流しも公開してるのだけれど……。
見せられる形にしたものが小説だ。
本を読まず読者の気持ちもわからないで読者不在の議論をしている。どうしたら売れる? こうすれば売れる。そういうのを読者を侮ってるというんじゃないかな、と私は、思うわけです。
本を読まずに読者の気持ちがわかるか、と。
あなたのいう読者って誰?
聞きもせず、決めつけて、しかも間違っている。
私は、女の子のイラストが描かれた本は買いにくいです。
映像作品の原作が書きたいなら脚本の勉強をすべきでしょう。映像的な小説もありますが。脚本家だって立派な仕事です。職業に貴賎はありませんからね。小説家のほうが上だなんてこともないでしょう。

小説でなければやれないことをやる。
そこに小説の存在意義がある。
小説だからできる表現。
そういうものを私は読みたい。

それが誰であれ、どんな立場のひとであれ、たった一人であれ、
読んでくれたひとには感謝しています。
また、ノーカウントにしてはいけないねとも思っています。
やはり。
少し前までは読まれなかったのが読まれるようになった、それだけで大躍進でした。

これから先のことは、また……
最低限度、自分の書いたものは小説だと胸を張れるくらいになる。
できればそう……どこにいるかわからない誰かに届けばいい……。

誰かの心に。
私にとって本は救いであった。
私は救いの手を差し伸べたい。
本、というツールを使って。

私は、生き抜いた。
あなたも、生きて。

たとえいまが、どんなにつらくても。

あなたを救うのは

あなただ。

けれど、私にその手助けを、させてほしい。

届くかな。
届けばいいな。
飛距離をのばせ!
遠くへ飛んでけ!

手を伸ばせ、助けてと。
その手を引っ張るから。





NHKの時事公論で虐待のことをやっていた。
児相に対し文句を言うのは簡単だろうが彼らも大変なのだろう。
性的虐待は表に出にくい。そこもつらい。
自分の場合は心理的、精神的虐待だったとおもう。
その影響は現在も、おそらく、ある。
あまり気にはしていない。
もう執着しないことにしたのだ。


書くことは衝動
本は救い

読むことは……
救いの、手を。差し伸べられたそれを求めて伸ばした手……
あるいは書くこともまた。

私にとってはそうであった。


小説のための小説ではなく。

書かずにはおれない衝動から、
書かなければいけない危機感から、
やむにやまれず書く。
心の奥底から噴出してくるドグマ、
物語化せねばならぬもの、
抑えきれずに書く。
書くことは衝動。書く行為は止められない依存症。
私の小説は、
具現化した衝動。
言語化した精神状態。
書かれた思考は私自身。