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根木珠たまねぎ日記|(旧 There's No Blog)

電子書籍を個人出版している根木珠、思考を垂れ流す。(旧Don't Believe Everything You Read)

根木珠著『YOME』(九十九電本文庫)のエッセイ部分を抜粋(本への想いを熱く語る)

エッセイ KDP 日記 電子書籍

本に対する思いの丈を書き綴ってみました。熱弁しており見苦しいかと思いますが、読んでいただけたら嬉しいです。ちょっと長いけれども、試し読み的に、ここに置いておきます。

「YOME」は予約販売として設定しているので、正式な発売日まではちょくちょく読み返して直しています。

随時、推敲、加筆訂正など行う予定です。

品質には万全を期しておりますが、万が一不明な点がございましたらご遠慮なくご指摘ください。

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・読書に対する想い、小説に対する想い

むかしから読書が好きでした。いろんな分野のものを読みます。勉強も好きですので、そのための本も読みます。そればかりを読んでいた頃、正直小説を読むのは時間の無駄だと、そんな暇はないとさえ思っていました。
けれども、こうしてまた小説に触れてみて、その根本的なところでの必要性を感じることができました。

 私が小学生のころ。
 学校に移動図書館というのがありました。
 図書館から、本を車に載せて持ってきてくれる、それで私たちはその本を借りられ、また、校内にある返却ボックスへ返すことができるのです。
 学級文庫や、図書室も、もちろん利用していました。
 図書カード、懐かしいですね。
 中学生のころもやはり、休み時間は読書をしていました。友達が少ないと、本がたくさん読めるので、いいですね……。ははは……。
 さて(気を取り直して)、社会人になってからも、本屋さんもよく行っていました。
 初めて買った本はなんだったか……、

 まったく憶えていません。不思議ですね。
 自分とは違う人生を追体験できたり、頁を繰る手が止まらなくなったり、驚いたり感動したり笑ったり泣いたり、本の装丁に感動したり、値段の高さに辟易したり、置く場所に困ったり……。
 最初はただの暇つぶしでした。
 けれども、今では、それらの読書体験が私という人間を成しているのであり、つまるところ人格形成におけるひとつの要素になっているように思います。
 ものを書くようになってからのことですが、物語化することの必要性も感じることがあります。伝えたいことが、そのまま書くより、物語にしたほうが、より伝わる。そんな気がするのです。
 そしてまた、物語とはなにか、小説とはなにか、それの存在意義とはなにか……。そんなことも考えます。
 古来からひとは、伝承や神話や、そういった物語、あるいはお話を、必要としてきた。
 生きるために、それは必要だったのだと思います。
 食べることと同じくらいに……。
 人類とお話との共生についてひもとけば、それはそれは厖大な時間を共に過ごしてきたのでしょう。

 ……なんて言ってみたかっただけです。それっぽいかなと思って。

 
 私は、なぜ、読むのか。
 私は、なぜ、書くのか。
 これもよく考えます。
 答えらしいものも、自分の中にあります。
 しかし、そのようなもっともらしい答えは、自分の深いところまで、すっと入ってこない。
 ですから、これからもずっと考え続けていくのだろうと思っています。
 私には私の、動機、理由、意味が有り、(または無く)、あなたにはあなたの動機、理由、意味が有る(または無い)のでしょう。
 それでいいのだと思います。

 例えば司馬遼太郎さんは、自らの戦争体験から「日本人とは何か」、ということを考えはじめ、そうして数々の小説などを書くようになったそうですね。ただ、昭和のことだけはどうしても書けなかった。そこに、怒り狂うほどの情念があり、その情念はまた、たくさんの小説を書かせたものでもある。
そういった、一種異様の物凄さは、私には無いものだろうと思います。安易に「わかる」などと言い放つのはおこがましいとさえ感じます。
 例えばアゴタ・クリストフというひとは、悪童日記三部作(「悪童日記」、「ふたりの証拠」、「第三の嘘」)を、母語を奪われてなお、書きました。

ものを書くことはセラピーになるとよく言われますが、彼女の場合はむしろ、とても苦しく辛い作業だったようです。あれは実体験であり、主観的な真実である、と私は思います。精神的事実とでもいうのでしょうか。
あれを読んだときの衝撃は凄まじいものでした。泣きながら読みました。彼女の中の何かが、私の身体的反応を起こす引き金になったのでしょう。
それは何か。

…………。

・セルフパブリッシング(個人出版)の本について
 多様性に対する寛容さがあると考えています。

そして、そこでしかできないことにチャレンジしている人は応援したくなります。
商業本の小説などを読んでいると、私が読みたいのは無難なものなどではない。と、憤りを覚えることがあります。そういうものを自分で書けるわけではないのですが(笑)

『話題作』と謳われるとそれだけで忌避したくなるのは、単純に私の性根が曲がっているだけなのかもしれません。ですが、セルフパブリッシング本の良さは素直に推したい。なぜならば、そのほうが面白いから。
遊ぶこと、楽しむことの難しさを痛感する今日この頃です。

・余談
 小説家になろうと思ってから、さらに読書量が増え、積読も増えました。一時期、「私は本当に読書が好きなんだろうか?」という気持ちになったことがあります。いわゆるマストリードといわれる作品ばかり読んでいて、読まなきゃ! という気持ちでいたからでした。もちろんそういうのも必要だと思います。がんばって読む。学術的なものや実用書なんかはそうですね。しかし小説はどうでしょうか。
 触手の伸びない、食指が動かないものを、わざわざ読むべきなのか、どうか。
 好みの問題もあります。
 難しいところですね。
 文学オタクになってはいけない、と私は、よく思います。なにも他人にそれを強要したいのではなく、私自身に課していることです。

手垢まみれの言葉ですが、広い視野で物事をみられるようになりたい。

俯瞰、鳥瞰、複眼的、多角的に、捉えることのできる人間になりたい、という想いがあるからです。
 同じ物事や現象を、たとえば心理学的に解釈したり、文化人類学民俗学や宗教学、歴史学言語学などの観点から観察したり、地政学の面から推察、論考したりするのも面白いでしょう。
 小説家は、小説だけ読んでいてもよろしくないのではないか、と近ごろはそう思うようになりました。まあ、そんなことはお前ごときに言われなくてもわかっているよと、と賢明なる読者諸氏なら悲憤慷慨(?)するでしょうけれども。
 そして、読者を侮ってはいけない、とも思います。というのは、なにも、わかることをわざわざわからないように書くということではありません。わかりやすいから芸術性が劣るというものでもないでしょう。純文学にみられる、ほとんど信仰にも似た難解さに対する評価の高さ、文学は高尚であるという位置づけは、彼らが……彼らというのが誰なのかわかりませんが……大衆文学と対峙する際、そういう言説を唱えたというだけのことでしょう。アンチテーゼ、あるいはルサンチマンなのかもしれません。
 読者を侮らないというのは、そういうことではなく、小説そのものの質を下げる必要はないのではないか、ということです。
 「こういうのが売れているから」とか「こういうのが受けるから」という理由で書かれたものは読者にはすぐわかります。そして離れていく。私が商業本に愛想を尽かしたのは、そういうところです。読むに値しないとさえ思う。
 では、読むに値する小説が自分に書けるのかといったら……、ええと、いや、それはまた別の話です……(笑)
 そもそも読むに値する小説とはなんでしょう?
 明日食べるものにも困るような、生きるか死ぬかというときに小説なんか読んでられませんね。
 けれども、現に、少なくとも私という一個の人間は小説を読んでいる。
 なぜかと訊かれるとちょっとすぐには答えられません。ただ読みたいから。ただ面白いからでしょう。
 本に愛情を持っているあなたなら、わかるはずです。
 その、楽しいという気持ちを、忘れないでほしいと願ってやみません。 
 積読はいまもなお、増殖の一途を辿っています……。

 ぐぬぬ……。

・まとめ
 エッセイのようなものは、自身の人間的浅薄さが露呈してしまうので、こわい、と思っています。また、小説を書く人でありたいがため、やりたいことは小説でやる、さらに小説では自己主張はしない、というのがモットーでした。
 小説以外のものを書くようになったら小説家として終わりだ、とも思っていました。
 けれども、それ以上に、こういう本を出したい、やってみたいという気持ちが強かった。
 こんな面白いことがある。こんなにも楽しいんだ。

 それがあなたに伝わったなら、それだけで私は報われます。

 拙い文章でしたが、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

 楽しい読書ライフを送ってください。


 2016年 初夏  根木 珠

 

 

『YOME』只今、予約受付中。

発売日 5月5日

価格  110円

YOME

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